すれちがうのに身をかわしながら、
あおぐほど高い堅牢な住居がならぶ古く狭い路地を抜けると、
大聖堂にでてくる。
カソリックの宗教心もなければ教養ももちあわえていないけれど、
敬虔な祈りのこころがわいてくる。
これは、生まれてはじめて奈良の仏たちに接した西洋からの旅人にも
似たような心情はわいてくるのであろう。
祈りのこころは宗派をとわず、原初のものであろう。
ここバルセロナのカテドラルは600年かかって作られている。
なにも特別なことではなく、パリもミラノでも大聖堂は気のとおくなる
歳月をかけて完成の時をむかえている。
バルセロナを日本に有名にしたガウディの聖教会は、
この大聖堂とは別に、街はずれにある。
サグダラ・ファミリアがガウディの死ののちも、膨大な歳月をかけて
未完であることが脅威と誇大宣伝しているのはすこし誤解がある。
ガウディの建築技法のオリジナリティ。それにつきる。
しかし、サグダラ・ファミリアは最後の3つ目のファサードが
セメント工法に変わって、たちまちに遊園地化している。
いいすぎだろうか。
新幹線がとおる予定になって、急きょ建築をあと20年以内に
はやめた成果?らしい。何百年の先にできあがった土だけの尖塔は
これからも維持可能だろうが、これから急いで作っているセメントの塔は
今後100年維持できるだろうか危ういという。
日本を襲っている津波と原子力放射能汚染から、
あらたな始動がはじまろうとしている。
サグダラ・ファミリアの現実をまのあたりにして
謙虚に敬虔に、いま歴史をつくる現場にあるとの
おもいがある。
この地震を放射能汚染をふくめて、
人災として、社会的責任を追及する声もある。
人災か天災か、決めつけてなんになろう。
人類がいかされているのも、おおきな宇宙的時間の自然の
営為である。そうであれば、すべては天災と身にうけて
謙虚に次のステップに目線をむけていこう。
光はそちらからさしてくる。