<さおだけ屋>のアート性について

推理小説原作の映画。
犯人探しの種あかしになると
急にしらけてしまう。
原作の出来やない。映画の出来。
犯人の母親が夜のブランコにゆれている
シーンだけはよかった。

謎が解明されても、なおあらたな謎が。
謎がとけたところから、別に次元にすべりこんだ。
このおもろさが<現代アート>。

ひとむかし前、
『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』ブームがあった。
あれはいまおもうにきわめて<アート的>なシーンやなかったか。
なぜか、「さおだけ~~~さおだけ」という棹だけ屋が
昼日中の街中にあらわれる。
その光景は日常であって、あたりまえにみすごしていた。
<なぜつぶれないか>という問題提起がなされるまで、
<なぜ>は存在しなかった。
そして、<なぜ>は膨張した。
若い会計士がその分析をして、あっさり解明された。
しかし、あの限りなくノスタルジーに誘いこむあの売り声。
無用の長い棒をつんでのろのろと走る軽自動車。
この光景がかぎりなく<現代アート>であるし、それ以上に
なにもない<ケ>の舞台に<棹だけ屋>をひっぱりだした
会計士の<なぜ提起>そのものが<アート>である。
そして、あれから数年。
完全に棹だけ屋の姿は街から消えてしまった。
<現代アート>がつぎの瞬間には
過去の廃棄ゴミとなっている現実に似ている。

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【タイム食首】
幸せの極の極とはこのことかオムレツの黄色ケチャップの赤色
: 北川浩久