三宅勇介、現代短歌評論賞受賞

<機会詩としての短歌の可能性>
今年の現代短歌評論賞のテーマです。
受賞したのは三宅勇介。
『抑圧され、記号化された自然』

このテーマは、東日本震災と原発の3.11後、
あらゆるジャンルの芸術家につきつけられた設問でもあります。
この大事件を作品として表現するかどうか。
戦争、革命、内乱、大災害、天変地異。
それをどう扱うか、全くふれもしないか、に正解はありません。
答えをさぐる行為そのことに意味があるだけです。
三宅の論文が異彩をはなったのは、
状況論、精神論、社会論、正義論ではなく、
短歌の構造そのものを文学として分析し、
問題点を摘出したところにあります。

悲惨な戦争と可憐な花の自然との二物衝撃の短歌は、
自然を必然的に記号化しまう構造をもっています。
この根源的な問題定義が三宅論文のオリジナリティといえます。
歌が意見化すれば、幼稚な観点だろうと、専門知識で冷静に認識していようと、
何かのメッセージを込めた場合、紋切型の歌にならざるをえないのではないか。
論文のなかで、藤田嗣治の戦争画に描かれた
菫の花も同様に記号化されたものだ、とひっぱってきています。

芸術とは、具体的なモノで概念を象徴することであれば、
記号化は必然であります。
それが紋切となるかどうかは個個の
作品で検証するしかないでしょう。
村上隆は、花を意図的に記号化しています。
しゃれこうべ、頭蓋骨は、古来から世の東西をとわず、
死を記号化したものです。

また、別の視点で機会詩のことを絵画においてみれば、
ピカソのゲルニカも村上の五百羅漢もすべてメッセージ性をおびた
機会詩であることはいうまでもありません。

論点を短歌構造にしぼって、二物衝撃から自然記号化を
まないたにのせてくれた点に拍手。

10月に大阪で会う時には、うれしい乾杯をしよう。