一匹の大きな象が部屋の窓から外に出ようとしている。
でっかい頭と胴体は出ることができたのに、
なぜか尻尾 だけが出られない。
人間という一枚のガラス板が存在する。
キリスト者はガラス窓ととらえ、
禅者は鏡として捉える。
前者の場合:
ガラス窓を通して神の光が差し込んでくる。
窓を磨きあげ、透明な無になることによって、
はじめて神と通じあえる。
後者の場合:
鏡を磨きあげることは煩悩の塵を払うこと。
無になったことで、本来の仏が映しだされる。
ただし、ガラス窓であれ、鏡であれ、
どんなに透明であっても割られなければならない。
さもなくば無ではない。
以上は、『笑う禅僧』という 禅宗の<公案>に関する本にある。
安永祖堂さんの語り口は古今東西のサンプル例が
映画、音楽、アート、文学とあちこちとびまわって、
めちゃくちゃおもろい。
ちんぷんかんぷんの香具師の口上みたいな公案が
にわかに見に添ってきた。