古希のゆわれは、あちこちの店に酒のツケ

学生時代にお世話になった先輩の方から、
近況報告のお葉書を頂戴した。
この方の住まいは小倉。福島にすんでいる学生時代の
知人とこの震災後50年ぶりに遭遇。
葉書通信をはじめ、毎日一枚たがいに届く葉書を
めっちゃたのしんでるという。
ケイタイの老人バージョンなんやけど、
葉書でしか伝わらない鎮魂や祈りの余白があるんでしょう。
葉書、メール、ツイッター、フェイスブック、ブログ。
まず形式ありきか、まず内容ありきか。

もひとつ。この文面に<私は古希となり、満身創痍>。
70歳をなんで古希というのか、ちょっと気になりました。

杜甫の詩
「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」
酒代のつけはたいていいつも行くお店にある。
だけど70年生きる人はむかしからめずらしい。
ここから、70年の長生きをめでたいこととして
古希という表現をするようになった。
わかりやすいのですが、あんまりないことだと
感心することの比較する例として、酒屋のつけがあたりまえですやん
というのは、唐の時代からの高名な詩として、どんなもんでしょう。
この<酒債>にはなにか特別な意味があるんでしょうか?

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【タイム食句】
この寒さ大陸よりぞ饂飩食ふ : 岸本尚毅