デビッド・リンチの『イレイザー・ヘッド』を観ていて、
桂枝雀の落語がどよーんとしみ込んできました。
枝雀の晩年の舞台は、ひとつの肉塊になりたがっていた。
人間の存在がうとましく呪われた溶けかかった生命体としか
いえない何者かであると、それしかできなくなっていた。
それは絶望の末のおちこんでいった芸の魔者ではありません。
理性的に分析した結果でしょう。
落語という芸は知識として記憶されては笑いは
うしなわれるもので、いつもいきいきと笑いをうまれさせるのは、
直接、情に訴え、魂をわしづかみにすることだといっています。
リンチのこの映画は、フランシス・ベーコンの影響をモロにかぶったものだと、
語っています。
いままで、世界中、どこにもなかったものだ。
枝雀からリンチからベーコンへ。
ベーコンの叫びは枝雀の自画像にもみえてきました。